住むを考える


先週日曜日に入交佐妃さんに撮ってもらった写真を
再度ウェブサイトの「ミラボと実家」でアップしています。


中と外を同時に撮ろうとすると
外ばかりが飛んでしまった夏の陽射し照りつける前回とは違って
秋の落ち着いた光(しかし午後にはファインダーに垂直に入ってくる)で
たくさん撮っていただきました。


目で見ると自然に補正してなめらかに一続きに見えるものも
機械のフィルターを通すと人的に補正してやらなければいけなくて
(室内の照明は中が暗いのではなく外との差を緩和してやるため)
人間の目ってすごいなぁとつくづく思います。



さてさて。


ある住宅雑誌に掲載のお願いをしていたのですが
私たち夫婦が住んでいないことから
丁重にお断りされました。


なんだか微妙に違和感がありまして。


断られたことに違和感を感じているのではありません。
義両親の住まいにたまたまちょこっと私たちの事務所がついていても
「住まい」というカテゴリーから門前払いされるのかぁという思い。


もっと言えば、今のわたしの生活なら
ここ(事務所)で過ごす時間と家で過ごす時間はほぼ半分。
あまり遅くまでいると義両親が心配するので
家にコンピューターを持ち帰って
オットが帰ってくるまで仕事をしていることもままあるのですが
だったとすれば「住まい」って何なんだろう・・と思ったりして。


ここに私が「住宅」に対して感じ続けている
違和感の原因があるような気がむくむくとしてきました。



最近思うのですが
働きマン」に代表されるように
女の人が働く(女の人だけじゃないけど、これは女の人が主役)ということが主題のドラマって
10年前、5年前にあったかな?


働く女の人はずっと前からずっといたと思うけれど
やっぱりいろんな人生の節々で
少しスピードを落としたり
あるいは休んだりしなければいけなかったことがあったとき
「働く」ということと「生活する」ということを
どうにかして調整する手だてのバリエーションが
少なかったのかもしれないと思うのです。


私が貧乏性なだけかもしれないけれど
いくらリゾートホテルみたいに
緑がいっぱいあって
温泉がふつふつとわき出てというとびきりの環境があったとしても
そこにぼーっと居続けることがどうもしんどい。


それまでパツンパツンになって
ときにそういう環境がごほうびとして得られるなら
心の奥底から思わず「あ”ー」と言いたくなりそうだけれど。


働くことと生活することがあまりにずるずるになりすぎても
しんどいかもしれないけれど
住宅は住宅
オフィスはオフィス
病院は病院
と、カテゴリーに分けて建築をつくることに
違和感は否めない。


「リンゴ」を描いてと言われて100人中100人が描く
真ん中がぴょこっとへこんでリンゴは
本物のリンゴをじっくり観察して見比べたとき
そのリアリティに圧倒される。


建築がカテゴリー化されたとき
そこにリアリティはあるのだろうか。


倉庫は住宅になりにくいかもしれないし
住宅も倉庫になりにくいかもしれない。


でも人がいる場所ならどんなものでも
もっと住宅みたいな感覚で
設計できないのか。
その逆がありえないのか。


どんな業種であったとしても
自分が生活して使い手となって発見したことを
作り手となってフィードバックするという循環が
いろいろな仕事を豊かにしていくんじゃないかなぁと思います。


こういう「公」と「私」の循環に
わたしは興味があるし
そういうことが「飽きない」とか「長続きする」ということの
ヒントになるんじゃないかなぁとも思ったりして。


働くことはだれでもできるかもしれないけれど
働き続けるってすごく大変。


最近まわりの「働く母」を目の当たりにするにつけ
そういう人たちを応援するような環境を
何か建築という方法で実現できないかなぁと思います。


泣く子をスリングで抱っこしつつ
クッションがわりにおざぶを膝にはさんで
それでも図面を描く母に
「がんばれー!」とわたしは言いたい。


そんなこんなで。
ではまた!